2007年10月18日
波照間のサンゴ白化と台風(ホシさんから写真と便り)
この夏、ニシハマ沖などでダイビングやシュノーケルを行った多くの関係者から、サンゴが異常に白化しているという話を聞きました。場所によっては全滅に近いところも見たということでした。
この夏から秋にかけて沖縄近海での台風発生が続きましたが、海水温上昇などと関連があるでしょうか。
八重山全体の情報は、八重山毎日に出ています。
http://www.y-mainichi.co.jp/?action_article_show=true&article_id=9109
照島荘のホシさんが、台風12号通過後、干潮時に島の防波堤から撮ったサンゴの写真とコメントを送ってくれています。
*****以下、ホシさんからの便り
「サンゴの白化の、岸からの写真です。
一番北側の防波堤の外です。
サンゴは見えていましたが、全体的に黒っぽく、きれいという感じではなかったんですが、白化が始まり、藻が抜けていって、悲しいほど、一段ときれいになっています」
2発目の台風が八重山を通過してから、きょうで10日。
照島荘に連絡したところ、ホシさんの話では島の風景は昨年八重山に大きな被害が出た13号の時よりもひどい状況のようです。
昨年は、観測史上最大とはいえ、通過後の樹木や植物の回復はすばらしく、台風通過の1週間後に島に行った時はすでに青葉が萌え出ていて、力強さを感じたものです。さとうきびも順調だったようです。
今年の場合、9月18日に12号が直撃し、倒れたさとうきびもまた立ち上がって成長を始めた矢先、10月7日に再び15号に直撃されています。
さすがに大型の連発直撃のダメージは大きかったらしく、この冬の黒糖生産は深刻な状況のようです。
島のばあちゃんたちは、畑の雑草も吹き飛ばされてしまったよ、と寂しい笑いをしているとか。
島の樹木の再生も、ちょっと時間がかかりそうとのこと。
島周辺のサンゴはどうなっただろうか。
この夏から秋にかけて沖縄近海での台風発生が続きましたが、海水温上昇などと関連があるでしょうか。
八重山全体の情報は、八重山毎日に出ています。
http://www.y-mainichi.co.jp/?action_article_show=true&article_id=9109
照島荘のホシさんが、台風12号通過後、干潮時に島の防波堤から撮ったサンゴの写真とコメントを送ってくれています。
*****以下、ホシさんからの便り
「サンゴの白化の、岸からの写真です。
一番北側の防波堤の外です。
サンゴは見えていましたが、全体的に黒っぽく、きれいという感じではなかったんですが、白化が始まり、藻が抜けていって、悲しいほど、一段ときれいになっています」
2発目の台風が八重山を通過してから、きょうで10日。
照島荘に連絡したところ、ホシさんの話では島の風景は昨年八重山に大きな被害が出た13号の時よりもひどい状況のようです。
昨年は、観測史上最大とはいえ、通過後の樹木や植物の回復はすばらしく、台風通過の1週間後に島に行った時はすでに青葉が萌え出ていて、力強さを感じたものです。さとうきびも順調だったようです。
今年の場合、9月18日に12号が直撃し、倒れたさとうきびもまた立ち上がって成長を始めた矢先、10月7日に再び15号に直撃されています。
さすがに大型の連発直撃のダメージは大きかったらしく、この冬の黒糖生産は深刻な状況のようです。
島のばあちゃんたちは、畑の雑草も吹き飛ばされてしまったよ、と寂しい笑いをしているとか。
島の樹木の再生も、ちょっと時間がかかりそうとのこと。
島周辺のサンゴはどうなっただろうか。
2007年09月10日
忘勿石(わすれないし)【波照間戦争マラリア1】
昨日の沖縄タイムス朝刊で、民宿たましろの玉城功一さんが波照間の戦争マラリアについて語られています。
連載記事「教科書改ざん ただす」で、「軍命」による悲劇の実体験者として話されておられます。
沖縄タイムスのホームページにも掲載されていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu17.html
********
●西表島の忘勿石と波照間の戦争マラリア
西表・南風見の浜にある碑
風化しかかっている「忘勿石」
「忘勿石」のあるあたり
写真はいずれも2004年10月
62年前の今ごろ、本土は終戦で戦争状態から解放され、復興に進みつつあった。だが、沖縄や大陸、南洋の日本人にとっては過酷な状態が続いていた。沖縄では9月になっても残置日本兵の襲撃など戦闘状態があり、県民が入れられた収容所では過酷な状況があった。離島は飢餓と傷病でひん死にあった。とりわけ波照間島は、マラリア地獄の淵にあった。
西表島で波照間島を望む南岸、南風見海岸。大原港から徒歩30分ほどにあるこの浜の一角に、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれたレプリカと、識名信升先生の像がある(写真上)。
識名信升先生とは、戦時中の波照間国民学校の校長先生。
1945年4月、波照間島の住民は、「軍命」によりマラリア汚染されていたこの地に強制疎開させられていた。次第に罹病者が増え、死亡者が出始めていた。波照間国民学校は、識名校長が海岸にある砂岩質の岩盤の上で青空学校として教育を継続したものの、教え子からも死亡者が発生し授業を続行することは不可能になった。
「この岩場にすわって勉強をしていた生徒の中からマラリアによる死亡者が出たので、その死を悼むとともにこのような強制疎開によって多くの波照間住民が死んでいった事実を決して忘れてはいけないという思いを込めて『波照間住民よ、この石を忘れる勿れ』と刻んだ」(故識名信升先生談、沖縄国際大学南島文化研究所「波照間島調査報告書」1982)。
その石盤は、今も浜辺に残っている(写真中)。2004年に訪れた時は、枯葉と砂に埋もれていた。風と波で風化するのは時間の問題と思われる。レプリカは、この岩盤の文字を元にしたものだ。周囲にはこの地で亡くなった80人の島民をアダン葉ムシロにくるんで仮埋葬し、後に島に埋葬するため掘り起こした跡が今も残るという。身体が衰弱していたので、埋めもどす力がなかったとのこと。
なぜマラリア汚染地帯に波照間住民が強制疎開されたかは次回記すとして、「軍命」により疎開を強制したのは、暴力と威嚇により波照間島民を恐怖に陥れた陸軍工作員「山下虎雄(または寅夫。日本軍のスパイネーム)」。1945年の初めごろ、紳士的な青年学校教師に化けてやってきた山下は、島に空襲が増えた3月下旬に日本軍人の顔を出し、島民支配を始めた。疎開後も南風見に毎日のようにやってきては島民を挺身隊として酷使し、暴力で亡くなった人もいる。
7月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増。識名先生は山下に帰島を懇願したが聞きいられなかったため、7月30日夜に密かに石垣に船で向かい、石垣に駐屯する独立混成第45旅団の宮崎旅団長に食糧枯渇と死者続出を直訴、生存している島民を帰島させることに成功した。
だが、帰島したものの波照間島では軍が食糧を根こそぎ持ち去っていたため、さらに凄惨な状況に。結果的に1590人の人口のうち1587人、実に99.81%の人がマラリアに感染し、477人が亡くなった(1947八重山民政府調べ※)。8月807人、9月489人、10月384人とマラリア犠牲者は続き、島民全滅の恐れもあった。波照間国民学校では学童323人のうち少なくとも66人がマラリアの犠牲になった。
※八重山全域では、1945年の「戦争マラリア」で人口31681人のうち16882人が罹患し(罹患率53.29%)、3647人が亡くなっている。
********
日本の降伏後、沖縄県では大部分が9月になっても戦闘状態であり、アメリカ統治下ながら日本軍(残置兵など)も存続していました。波照間島でも悲惨な状況が続いていました。その事実を知りたく、また平和を考える礎にと思い、当時のことを島の方に何度か聞こうと思ったのですが、辛く苦しい思いを蘇らせてしまうと考えるとお聞きできないのが現状です。
せめて、これまでの多くの証言や研究で明らかになっていることが死蔵されずに少しでも波照間に関心をお持ちの方で共有できればと思い、また今は平和な波照間を訪れる度に、戦争マラリアのことは旅人として記憶を新たにせねばならないと考え、取り上げる次第です。
(つづく)
連載記事「教科書改ざん ただす」で、「軍命」による悲劇の実体験者として話されておられます。
沖縄タイムスのホームページにも掲載されていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu17.html
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●西表島の忘勿石と波照間の戦争マラリア
西表・南風見の浜にある碑
風化しかかっている「忘勿石」
「忘勿石」のあるあたり
写真はいずれも2004年10月
62年前の今ごろ、本土は終戦で戦争状態から解放され、復興に進みつつあった。だが、沖縄や大陸、南洋の日本人にとっては過酷な状態が続いていた。沖縄では9月になっても残置日本兵の襲撃など戦闘状態があり、県民が入れられた収容所では過酷な状況があった。離島は飢餓と傷病でひん死にあった。とりわけ波照間島は、マラリア地獄の淵にあった。
西表島で波照間島を望む南岸、南風見海岸。大原港から徒歩30分ほどにあるこの浜の一角に、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれたレプリカと、識名信升先生の像がある(写真上)。
識名信升先生とは、戦時中の波照間国民学校の校長先生。
1945年4月、波照間島の住民は、「軍命」によりマラリア汚染されていたこの地に強制疎開させられていた。次第に罹病者が増え、死亡者が出始めていた。波照間国民学校は、識名校長が海岸にある砂岩質の岩盤の上で青空学校として教育を継続したものの、教え子からも死亡者が発生し授業を続行することは不可能になった。
「この岩場にすわって勉強をしていた生徒の中からマラリアによる死亡者が出たので、その死を悼むとともにこのような強制疎開によって多くの波照間住民が死んでいった事実を決して忘れてはいけないという思いを込めて『波照間住民よ、この石を忘れる勿れ』と刻んだ」(故識名信升先生談、沖縄国際大学南島文化研究所「波照間島調査報告書」1982)。
その石盤は、今も浜辺に残っている(写真中)。2004年に訪れた時は、枯葉と砂に埋もれていた。風と波で風化するのは時間の問題と思われる。レプリカは、この岩盤の文字を元にしたものだ。周囲にはこの地で亡くなった80人の島民をアダン葉ムシロにくるんで仮埋葬し、後に島に埋葬するため掘り起こした跡が今も残るという。身体が衰弱していたので、埋めもどす力がなかったとのこと。
なぜマラリア汚染地帯に波照間住民が強制疎開されたかは次回記すとして、「軍命」により疎開を強制したのは、暴力と威嚇により波照間島民を恐怖に陥れた陸軍工作員「山下虎雄(または寅夫。日本軍のスパイネーム)」。1945年の初めごろ、紳士的な青年学校教師に化けてやってきた山下は、島に空襲が増えた3月下旬に日本軍人の顔を出し、島民支配を始めた。疎開後も南風見に毎日のようにやってきては島民を挺身隊として酷使し、暴力で亡くなった人もいる。
7月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増。識名先生は山下に帰島を懇願したが聞きいられなかったため、7月30日夜に密かに石垣に船で向かい、石垣に駐屯する独立混成第45旅団の宮崎旅団長に食糧枯渇と死者続出を直訴、生存している島民を帰島させることに成功した。
だが、帰島したものの波照間島では軍が食糧を根こそぎ持ち去っていたため、さらに凄惨な状況に。結果的に1590人の人口のうち1587人、実に99.81%の人がマラリアに感染し、477人が亡くなった(1947八重山民政府調べ※)。8月807人、9月489人、10月384人とマラリア犠牲者は続き、島民全滅の恐れもあった。波照間国民学校では学童323人のうち少なくとも66人がマラリアの犠牲になった。
※八重山全域では、1945年の「戦争マラリア」で人口31681人のうち16882人が罹患し(罹患率53.29%)、3647人が亡くなっている。
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日本の降伏後、沖縄県では大部分が9月になっても戦闘状態であり、アメリカ統治下ながら日本軍(残置兵など)も存続していました。波照間島でも悲惨な状況が続いていました。その事実を知りたく、また平和を考える礎にと思い、当時のことを島の方に何度か聞こうと思ったのですが、辛く苦しい思いを蘇らせてしまうと考えるとお聞きできないのが現状です。
せめて、これまでの多くの証言や研究で明らかになっていることが死蔵されずに少しでも波照間に関心をお持ちの方で共有できればと思い、また今は平和な波照間を訪れる度に、戦争マラリアのことは旅人として記憶を新たにせねばならないと考え、取り上げる次第です。
(つづく)
2007年09月07日
タマスダレとサフランモドキ【慈雨のしるし】
タマスダレ。少し枯れているのはサフランモドキ
白がタマスダレ、ピンクがサフランモドキ
サフランモドキ
(写真はいずれも北部落内)
雨の後、島のあちこちの道端で白とピンクが入り交じって咲いています。
原産地 中南米、西インド諸島など
科 ヒガンバナ科
日本での自生分布 日本各地に帰化
漢字表記 玉簾、サフラン擬
沖縄本島方言名
波照間方言名
沖縄への導入
タマスダレは明治初期に、サフランモドキは1845年に園芸用として日本に導入されたという。
観察スポット 島の道端
開花時期 通年
香り
似ていて間違う木
タマスダレ/サフランモドキの見方
両方とも園芸名ではゼフィランサス。葉の断面はタマスダレが丸、サフランモドキが扁平。タマスダレには毒があり、ニラやノビルと間違えて食べると吐き気や痙攣を起こすといいます。
ともにレインリリーと呼ばれ、雨が降ったあとによく咲きます。ホシさんの話では「イクさんは雨が降る前に咲くっていうけど、絶対雨の後に咲いているよー」とのことです。昔から生活水を天水と井戸水に頼り、雨水には切実な思いがある島では、この花が咲くことが大きな恵みであるといえるでしょう。帰化植物ですが、波照間らしい花かも。
照島荘の近くにお住まいのハルサーで、ブログ「ベスマの風景」をされているmishikoiさんから「サフランモドキは、小さい時から雨降らすの花“アメプランスパナ”と聞いてきました」とコメントをいただきました。やはり、慈雨の花。帰化植物なのに方言名がついているなんて、島の人の雨に対する思いが伝わってきます。
2007年08月23日
ムシャーマ その10【ミルクさんとおばあ達のコーラス】
夕方の道ズネー後、北部落のがじゅまるの木の下での弥勒節コーラス(2001年)
同(2004年、広島県在住内田さん撮影)
午前、午後の道ズネーの最後、かすりの着物に太鼓やクバオージを手に「弥勒節」を謡いながら道ズネー行列の中ほどを歩いていた婦人グループが、道ズネーを終えたミルクさんを囲み「弥勒節」のコーラスを奏でます。曲は八重山では「弥勒節」と「やらよう」のセットが一般的ですが、波照間島のムシャーマの東組では「やらよう」は謡われていません。よく聞いてみると、竹富島「種取祭」CDに収録されている「しーざ踊」と同じ謡のようでした。
「弥勒節」はミルク神とそこからもたらされる恩恵を讃えたものですが、波照間で3番の歌詞「弥勒世ぬしるし 十日越しぬ夜雨」というくだりを聞くと、水に対する切実な思いが伝わってきて胸にジーンと響くものがあります。「しーざ踊」は、1番は「かぎやで風」(波照間では「御前風」)とほぼ同じ歌詞で、現実的な首里王府からの恩恵を讃えているようです。教訓的なニュアンスを交えながらこの日の喜びを率直に表現しているところも見受けられます。
ミルクさんのおだやかな表情と、もたらされる世果報の恵み。それを讃える、神女といってもよい域に達している婦人達のコーラスの神々しさ。言葉にしようのない美しさです。まるでこの世のものではない、あの世からの歌声のよう。豊かな実りと慈雨への切実な思い、島の先祖を大切にする思い、島の自然や神様への感謝の思い。これらが凝縮されているように聞こえてきます。島の人間ではない人も、自分たちの先祖や地域のことについて改めて考えさせられてしまいます。
ミルク節
大国ぬ弥勒 我が島にいもち 御掛き欲せみしょり 島の主
サンサングヤアサースリサーサー
弥勒世やいもち 遊ばばん遊び 踊らばん踊り 御免でむぬ
サンサングヤアサースリサーサー
弥勒世ぬしるし 十日越しぬ夜雨 掛きぐさいみしょり 御代ぬ記し
サンサングヤアサースリサーサー
しーざ踊
今日ぬ誇らしゃや なうにじゃなたてぃる
ちぶでぃうる花ぬ ヤリクヌウネ
露ちゃたぐとぅ 遊ぶさ踊るさ
ヨーシヌヤリクヌシー
首里加那志めでい ゆだんどぅんしゆな
働ちゅるなかどぅ ヤリクヌウネ
果報やしきゅる 遊ぶさ踊るさ
ヨーシヌヤリクヌシー
首里天加那志 むむとぅわいしゅわい
御万人ぬまぎり ヤリクヌウネ
うがでぃすでぃら 遊ぶさ踊るさ
ヨーシヌヤリクヌシー
2007年08月22日
ムシャーマ その9【「五風十雨」とフサマラー】
「五風十雨」と染め抜かれた旗頭(2003年、愛知県在住山さん撮影)
ミルクンタマーが持つ「五風十雨」の幟(2004年)
南洋土人踊りとフサマラー(2004年)
前組の旗頭は、「五風十雨」と鮮やかに染め抜かれています。「五風十雨」とは、5日ごとに適度風が吹き、10日ごとに適度な雨が降ってくれることが波照間の耕作にとってありがたかったことから、島の願いの象徴のようになっている言葉です。04年に照島荘でTシャツを作った際、イクさんから孫や曾孫に着せるためぜひこの文字を入れてほしいというリクエストがあったくらいです。本土でも使われる言葉で、秋田県では地酒の銘柄にもなっています。
川のない波照間で、天水は命にかかわる切実な問題でした。雨乞いや天水への願いは、島の民謡に多く謡われています。島のほとんどを占める琉球石灰岩の地層から地下水が硬水で飲料に適さなかったこともあり、今も各家庭には天水をためるタンクが設置されています。水が乏しかったころ、イモなどを洗ったあとの残り水を皆で待ち構えて、頭から浴びせて雨の降るのを願ったといいます(住谷一彦、クライナー・ヨーセフ「南西諸島の神観念」未来社、1977)
また、仮面にツタの葉をつけた男女2人の神で、戦前は年3回行なわれるアミニゲーという雨乞いの行事で出て木の枝で子供などをおっぱらったといいます。現在のムシャーマで、西組から登場するフサマラーではないかと考えられます。アミニゲーの際、若い男性が植物をまといよごれた面をつけて拝所をめぐり、「このように顔がよごれているのは水がなくて顔が洗えないためだ」といって神に哀願する行事があったといいます(滝口宏「沖縄八重山」校倉書房、1960)。
西組には以前から(1972発行の「波照間民俗誌」には写真あり)体を黒く塗った「南洋土人踊り」があります。雨乞いと関係があると思われるのですが、どなたか情報をお持ちであれば教えてください。(ムシャーマその5【東組の道ズネー】でyuduamiさんが貴重なコメントをされていますので、ご参照ください)
フサマラーや南洋土人踊りと同じように植物をまとう儀礼には、豊年と無病息災を願う沖縄本島北部に多い「シヌグ」や宮古島の「パーントゥ」などがあり、他の東アジア地域でも見られる習慣とか。これらは一般的に魔除けの意味合いが強いというが、波照間でも子供を追ったりするあたり、魔除けの意味もあるのかもしれません。