2007年08月21日
ムシャーマ その8【ニンブチャー】

午前の道ズネー後に公民館前で行われるニンブチャー。最初はうさぎ跳びのように跳ね歩く(2002年、東京都在住石丸さん撮影)

同。逆回りになり、囃子を唱えながら歩く(2001年)

午後の道ズネーの後、北部落のガジュマルの木の下で行われるニンブチャー。参加者全員が円を練り歩く。(2004年)
ニンブチャーとは、念仏踊りのことです。沖縄本島のエイサーも念仏踊りと言われますがスタイルは全く異なり、唄三線に合わせて囃子を唱えながら円を歩く巻き踊りです。
午前の行列後の各組による中庭でのボー、テークの後と、午後の行列で東組の部落に帰ってからの2回、円陣になって行なわれます。中庭で行なわれるものは各部落の役人とボー、テークのシンカー(仲間、出演者)で地謡と笛、ドラを中心に何重かの円になって謡い踊られます。東組に戻ってから行なわれれるものは、数名の役人による地謡を真ん中に参加者全員がひとつの輪になって謡い踊る。最初うさぎ飛びのように座って跳ね歩き、途中から立ち上がって逆回りになり、手ぬぐいを右手に持って左手に打つような感じで、合間に「サーハーリガユイサー サーサーサースリサーサー」と囃子を唱えながら輪になって歩きます。
ニンブチャーの由来は、成仏できない無縁仏を、村びとたちが共同でなぐさめ、故人をしのびつつ感謝することであるといいます。また、この行事は波照間島以外ではほとんど見られることがないとのことです。また、島の人の話では、盆の期間中以外に「ニンブチャー」を謡うと霊が戻ってきてしまうので、この日しか謡ってはならないということです。たしかに練習ができないせいか、地謡は歌詞を書いた巻き物を見ながら謡っています。
現在は盛大に行われていますが、沖縄県立博物館「波照間総合調査報告書」1998では「死者をなぐさめるもので旧盆の中の日の大きな行事であるはずだが、円陣を作る14人と28人の人たちのみの行事になっている」と書かれています。報告書の98年時点ではその日は音取りにあたる人はなく、テープにふきこまれたものを全員でうたうという方法で進められたようです。
「波照間島のムシャーマ」(波照間民俗芸能保存会、1982)では、「昔はムシャーマに参加した人全員でこのニンブチャーに参加して解散するのが掟であったが、しだいにソーリン(精霊祭)ムシャーマの中心となるこのニンブチャーが衰退してきて、今日では村の役人と棒シンカーだけでするようになっていると古老たちは指摘される。その原因は午前中の仮装行列の中庭の演目のテーク、棒の後に最後に演目として組まれるようになったから部落民はニンブチャーに関心がなくなり、早々と昼食へ帰宅してしまうからだと故仲本信幸氏は指摘され、その改善案を略図で図示され、提起される」とまとめ、「精霊祭の慰霊の祭典と念仏舞踊(改革への提言)」として次の文が紹介されています。
(1)この行事は、往時はムシャーマの始めから挙行された。精霊祭の祭典でこの催しがムシャーマの第1点であるのは、祖霊を慰めるいわゆる祖先崇拝の精神(信仰)から象徴されているのである。
(2)それでユーニゲー(豊年)の午前の行事(仮装行列)が終わると直ちにこの念仏舞踊の祭典に参観者も含めて全員が参加し(15分間)、ムシャーマの初興しをして全員解散して帰宅し、仏前に昼食を供え、昼食を済ましてから午後のムシャーマの行事の舞台舞踊、コームッサーと棒踊、太鼓、獅子舞をするのがその趣旨にかなう順序である。しかし棒踊と太鼓を先にして、念仏舞踊を最後にするから念仏を軽んずるようになって参観者は帰宅してしまうので念仏舞踊を先にする必要がある。日程の関係を配慮して行列の直後に参観者も全員で念仏舞踊をやり、続いて棒踊、太鼓をやって午前中の行事を終わり、昼食を済まして午前の日程に入るように改革することが精霊祭の中心となる念仏祭典を重視する趣旨にかなうものである。
ちなみに、1973年の記録(住谷一彦、クライナー・ヨーセフ「南西諸島の神観念」未来社、1977)には、当時は葉を頭に巻いて踊る巻き踊りだったと書かれています。
2007年08月19日
ムシャーマ その7【ボーとテーク】
ムシャーマを最も特徴づけるといえる演舞、ボーとテーク。各組で演じられます。踊りにも演奏にも海を越えたさまざまな地域の影響をほうふつさせ、波照間島が絶海の孤島のようで実は幾多の交流の歴史があったことを感じさせます。
各部落での道ズネー前、公民館の舞踊の最初、部落での道ズネーの最後、すべてが終わった後の「トメ」ともいうべき最最後と、1日に4ー5回(部落によってはさらにあるかも)演じられます。教員や警察官など転勤で島に来ている人、本土からの移住者なども青年会として踊りに加わります。どちらもかなりの体力と精神力を使い、相当にきつい作業のようです。というのは一度照島荘にテークのメンバーが来て一緒にやったことがあり、そのスクワット状態の踊りにみんなフラフラになっていました。

午前の道ズネーの後に公民館前で行われるボー(2003年、兵庫県在住杉江さん撮影)

午後の道ズネーの後に各部落で行われるボー。東組のもの。この写真の演じ手は本土から移住した青年(2004年)
ボー(棒)
玉木繁「琉球横笛考」(那覇出版社)によると、八重山各地で豊年祭や旧盆行事などでさまざまに演じられています。大別すると棒術として武技的要素を持つ「真棒(マーボー、宮良など)」と、武芸として舞踊的要素を持つ「南之島棒(パイヌシマボー、新川など)」に分類されるようです。波照間のボーは、武技的要素と舞踊的要素を兼ね備えたもので、与那国の「マーヌムヌ棒」も両要素を持っていると言われます。
本土でも神事での棒術は見られ、大阪市住吉区の住吉神社で6月14日に行なわれる「御田植神事」の棒打ちは、衣装もなんとなく波照間のテークに似ている感じがします。

午後の道ズネーの後に各部落で行われるテーク。東組のもの。(2004年、広島県在住内田さん撮影)
テーク(太鼓)
玉木繁「琉球横笛考」(那覇出版社)によると、八重山の太鼓芸は豊年祭、節祭、結願や旧盆などで各地でさまざまに行なわれています。行列ではテークヌピン(太鼓の笛)に合わせて棒のドラといっしょに拍子打ちをするだけで演技はないが、ドラと一緒に棒や獅子舞の拍子をとり、行列全体を盛り上げる役割を持っています。部落および中庭での演目では、囃子手4人、持ち手4人、打ち手4人、笛4人で構成され、独特のリズムで打ち踊られます。
なお、波照間では平常に笛や太鼓を鳴らすと嵐が来るといういわれがあったため、旧盆が近付く旧暦7月7日以降でないと練習ができなかったとか。
各部落での道ズネー前、公民館の舞踊の最初、部落での道ズネーの最後、すべてが終わった後の「トメ」ともいうべき最最後と、1日に4ー5回(部落によってはさらにあるかも)演じられます。教員や警察官など転勤で島に来ている人、本土からの移住者なども青年会として踊りに加わります。どちらもかなりの体力と精神力を使い、相当にきつい作業のようです。というのは一度照島荘にテークのメンバーが来て一緒にやったことがあり、そのスクワット状態の踊りにみんなフラフラになっていました。

午前の道ズネーの後に公民館前で行われるボー(2003年、兵庫県在住杉江さん撮影)

午後の道ズネーの後に各部落で行われるボー。東組のもの。この写真の演じ手は本土から移住した青年(2004年)
ボー(棒)
玉木繁「琉球横笛考」(那覇出版社)によると、八重山各地で豊年祭や旧盆行事などでさまざまに演じられています。大別すると棒術として武技的要素を持つ「真棒(マーボー、宮良など)」と、武芸として舞踊的要素を持つ「南之島棒(パイヌシマボー、新川など)」に分類されるようです。波照間のボーは、武技的要素と舞踊的要素を兼ね備えたもので、与那国の「マーヌムヌ棒」も両要素を持っていると言われます。
本土でも神事での棒術は見られ、大阪市住吉区の住吉神社で6月14日に行なわれる「御田植神事」の棒打ちは、衣装もなんとなく波照間のテークに似ている感じがします。

午後の道ズネーの後に各部落で行われるテーク。東組のもの。(2004年、広島県在住内田さん撮影)
テーク(太鼓)
玉木繁「琉球横笛考」(那覇出版社)によると、八重山の太鼓芸は豊年祭、節祭、結願や旧盆などで各地でさまざまに行なわれています。行列ではテークヌピン(太鼓の笛)に合わせて棒のドラといっしょに拍子打ちをするだけで演技はないが、ドラと一緒に棒や獅子舞の拍子をとり、行列全体を盛り上げる役割を持っています。部落および中庭での演目では、囃子手4人、持ち手4人、打ち手4人、笛4人で構成され、独特のリズムで打ち踊られます。
なお、波照間では平常に笛や太鼓を鳴らすと嵐が来るといういわれがあったため、旧盆が近付く旧暦7月7日以降でないと練習ができなかったとか。
2007年08月18日
ムシャーマ その6【ミルクさん他プロフィール】
「ムシャーマその5 道ズネー」で紹介した登場人物のうち、主役級3方のプロフィールです。

ミルクさん(2004年、大阪府在住上田さん撮影)
ミルク(弥勒)さん
道ズネーの先頭に立ち、島に世果報(ゆがふ)をもたらすべく笑みをたたえた姿で実りを振る舞いながらゆったりと歩く姿には、心が動かされます。本土にある弥勒菩薩と同じで、ということはミルクさんの笑みはアルカイックスマイルなわけです。
ミルクは波照間では女性、お供はミルクの子供と考えられています。喜舎場永王旬(じゅん)氏の調査によると、「1971年に黒島首里大屋子の大浜用倫が公用で上国の帰途、逆風に逢って安南に漂着し、折からの豊年祭で弥勒仏が出ていたのを見て、弥勒の面をもらって福州を経て沖縄に帰着し八重山に帰ろうとしたが、用事のために一便先に随行の百姓新城筑登之に自ら作詞作曲した弥勒節や新調した衣装などを持って帰らせた。用倫は遅れて帰る途中再び疾風に逢い、船は中国に漂着し客舎で没したという。筑登之は託された歌と面と衣装を登野城の部落民に伝えたのが、八重山の弥勒と弥勒節の始まりという」(滝口宏「沖縄八重山」校倉書房、1960)。
ミルクさんと初めとする仮面儀礼は、東南アジアや中国南部に広く見られる習俗です。

ブーブザー(2006年)
ブーブザー
3組とも長いヒゲを生やしたブーブザーという、ミルクの夫といわれている人物が行列の前後を跳び回り、道化の役を果たしています。沖縄本島のエイサーにおける京太郎(チョンダラー)、中国の獅子舞における獅子使いと動きが似ています。ブーブザーについて「波照間島のムシャーマ」(波照間民俗芸能保存会、1982)は「彌勒は女性で、ブーブザーはその夫君だといわれ、彌勒に離縁されてその姿で行列の前後を駆け回っているといわれるが、ブーブザーは行列の進行の調整役をするものである。ブーブザーはミルクより前になってはいけないといわれている。ミルクを女性で妻、ブーブザーを夫というとらえ方は、後の考え方であろう。ミルクは豊穣をもたらして下さる尊い神としての象徴であろうから、性別はないのは本来の姿であろう。やはりミルクを先頭に大きな行列を編成するので、ブーブザーの役を設定して滑稽さを加味させていったのであろう。村落の統率者の役を持っていて、ミルクに対比させるための演出であろう」としています。

シーシー(2002年、東京都在住石丸さん撮影)
シーシー
シーシー=獅子は、多くは招かれざる精霊、無縁仏を追い払うためというところが多いようです。八重山では盆行事と結びついており、波照間では「シーシー」という笛のメロディに乗せて踊ります。着ぐるみ状になっていて中に2人入るものは沖縄全域で見られ、本土の布幕をかぶる独り舞いの獅子とは異なり、中国のものと似ています。ちなみに神戸の南京町などで春節の行事等で見られるアクロバティックな踊りは、本来的には中国ではなくシンガポールやマレーシアなどの華僑が始めたそうです。
滝口宏「沖縄八重山」校倉書房、1960では、「獅子には獅子の棒といって棒遣いが出たり、ペイキソあるいはタイラクという一団の太鼓を打つものが獅子の前に出たりすることもある」と書かれています。現代はテークのほかパーランクの一団が入っていますが、この記述と関係するかもしれないです。
現在、獅子舞は笛のメロディだけですが、「波照間島のムシャーマ」(波照間民俗芸能保存会、1982)の記載では、笛にあわせて歌が謡われていたようです。明治37、8年まで遡ると、獅子を山奥から誘い出すため大勢の部落民があらゆる楽器を鳴らしながら謡い踊ったといいます(玉木繁「琉球横笛考」那覇出版社)。

ミルクさん(2004年、大阪府在住上田さん撮影)

道ズネーの先頭に立ち、島に世果報(ゆがふ)をもたらすべく笑みをたたえた姿で実りを振る舞いながらゆったりと歩く姿には、心が動かされます。本土にある弥勒菩薩と同じで、ということはミルクさんの笑みはアルカイックスマイルなわけです。
ミルクは波照間では女性、お供はミルクの子供と考えられています。喜舎場永王旬(じゅん)氏の調査によると、「1971年に黒島首里大屋子の大浜用倫が公用で上国の帰途、逆風に逢って安南に漂着し、折からの豊年祭で弥勒仏が出ていたのを見て、弥勒の面をもらって福州を経て沖縄に帰着し八重山に帰ろうとしたが、用事のために一便先に随行の百姓新城筑登之に自ら作詞作曲した弥勒節や新調した衣装などを持って帰らせた。用倫は遅れて帰る途中再び疾風に逢い、船は中国に漂着し客舎で没したという。筑登之は託された歌と面と衣装を登野城の部落民に伝えたのが、八重山の弥勒と弥勒節の始まりという」(滝口宏「沖縄八重山」校倉書房、1960)。
ミルクさんと初めとする仮面儀礼は、東南アジアや中国南部に広く見られる習俗です。

ブーブザー(2006年)

3組とも長いヒゲを生やしたブーブザーという、ミルクの夫といわれている人物が行列の前後を跳び回り、道化の役を果たしています。沖縄本島のエイサーにおける京太郎(チョンダラー)、中国の獅子舞における獅子使いと動きが似ています。ブーブザーについて「波照間島のムシャーマ」(波照間民俗芸能保存会、1982)は「彌勒は女性で、ブーブザーはその夫君だといわれ、彌勒に離縁されてその姿で行列の前後を駆け回っているといわれるが、ブーブザーは行列の進行の調整役をするものである。ブーブザーはミルクより前になってはいけないといわれている。ミルクを女性で妻、ブーブザーを夫というとらえ方は、後の考え方であろう。ミルクは豊穣をもたらして下さる尊い神としての象徴であろうから、性別はないのは本来の姿であろう。やはりミルクを先頭に大きな行列を編成するので、ブーブザーの役を設定して滑稽さを加味させていったのであろう。村落の統率者の役を持っていて、ミルクに対比させるための演出であろう」としています。

シーシー(2002年、東京都在住石丸さん撮影)

シーシー=獅子は、多くは招かれざる精霊、無縁仏を追い払うためというところが多いようです。八重山では盆行事と結びついており、波照間では「シーシー」という笛のメロディに乗せて踊ります。着ぐるみ状になっていて中に2人入るものは沖縄全域で見られ、本土の布幕をかぶる独り舞いの獅子とは異なり、中国のものと似ています。ちなみに神戸の南京町などで春節の行事等で見られるアクロバティックな踊りは、本来的には中国ではなくシンガポールやマレーシアなどの華僑が始めたそうです。
滝口宏「沖縄八重山」校倉書房、1960では、「獅子には獅子の棒といって棒遣いが出たり、ペイキソあるいはタイラクという一団の太鼓を打つものが獅子の前に出たりすることもある」と書かれています。現代はテークのほかパーランクの一団が入っていますが、この記述と関係するかもしれないです。
現在、獅子舞は笛のメロディだけですが、「波照間島のムシャーマ」(波照間民俗芸能保存会、1982)の記載では、笛にあわせて歌が謡われていたようです。明治37、8年まで遡ると、獅子を山奥から誘い出すため大勢の部落民があらゆる楽器を鳴らしながら謡い踊ったといいます(玉木繁「琉球横笛考」那覇出版社)。
2007年08月10日
虹と北斗七星と観測タワー from 照島荘・ホシさん

照島荘のホシさんから、暑中見舞いとともに幻想的な写真が。
「7月30日は満月でした。
月明かりで光る海をお客さんに見せようと、
高那崎の方へ向かいました。
雨がポツポツ降ってきたので、いつでも雨宿りできるように、
星空観測タワーが休みだったので、その軒先に行きました。
すぐに雨も止み、少し赤みがかったまぁるい月が、
太陽のように海を照らしていました。
北斗七星も見えたので、観測タワーを入れて写真を撮って
みました。
なんと、虹が!!
そのころ集落では、久しぶりの土砂降りだったそうです。
月明かりの虹・月光虹とか月虹(moon bow,naight rainbow)
とか言うそうです。
とてもまれな現象らしいです」
******
補正されているので明るいですが、実際満月のすみきった夜は、
そうとう明るいです。そこに虹とは・・・
それにしても、よく撮れています。
ホシさん、ありがとうございます。
2007年08月02日
ムシャーマ その5【東組と照島荘の道ズネー】

2000年の照島荘道ズネー

以下のパートに分かれて演じながら歩きます。
各組の出し物は微妙に異なっており、東組は以下の行列が基本パターンです。
「大旗」から「稲摺り」までは厳格に順番が決められているようで(理由は後述)、「六調」以降は年によっては前後しています。2001年は、「六調」がウマムシャーの後に来ています。また、2005、06は「久高節」がウマムシャーの前に来ています。
(写真は東組以外の行列のものも入っています)

「東」の文字と「太陽」の図柄あり、男子中学生くらいが持つ

2006年(大阪府在住杉山さん撮影)

ミルクの実、竹に実ものをいっぱいつけている。男子児童が持つ

2003年

男子児童が椅子持ち、女子児童2人は両手に粟、稲を入れたかごを持つ。後ろに白地に赤丸の小旗を持つ子供、親子たちが行列を作る。 親子の中にも、粟、キビ?を持つ童子が2人 。

2001年

構成はかすりをきた女性年配者(うち何人かはしめ太鼓を叩く)、地謡の男性年配者(9人が本式という)。ミルク節は9番まで謡う。

2003年

美しい衣装を付け扇を持つ女性と笠で踊る女児、男性地謡はかすりだったりワイシャツスラックスだったり。

2004年

2006年、踊り手は波照間小学校の先生です

基本は16人、大人の男子2人が囃子を入れながら先導する。クワやビラを持って踊る。 照島荘は2005、2006年に参加。


2005年
* この周辺を、その時々のおもしろい格好をした狂言者役の男性1人が、一輪車、リヤカーに草花を詰んだものなどを動かしながら行列を前後する。「健康ど宝」などの立て札が立てられることも。

2004年

2005年

ひき臼を意味すう白い布持ち3人、稲1人、箕=ミジョーキー持ち2人、杵2人、俵枡持ち1人

2004年

着物に花笠姿の女性4人

2002年(東京在住石丸さん撮影)
* この周辺を「かつお釣り」1人がチョンダラーのように前後を動き回る。

「崎枝節」にのせて、4ー8人が馬の型どりをつけて舞う。照島荘は2000年から参加しているよう。竹富町など沖縄各地で同様の踊りがある。照島荘のお客さんと地元の方の混合チームで出ることが多い。2002、2003年は、すべて照島荘のお客さんだった。地謡も照島荘。

2001年

2002年

2004年(大阪府在住上田さん撮影)

2000ー2003、2006年に出場。照島荘オリジナル。4人ー8人程度が、クバ笠を持って踊る。地謡も照島荘。盛り上げるため何かいい出し物がないかという打診があり、長野県出身のお客さんが「実は地元に秘伝の踊りがあるのですがー」といって始まった。地域のおばあちゃんが大喜びする。

2001年

2002年

2006年
*この周辺に「ブーブザー」といわれるミルクさんの夫がいて、ミルクさんの近くから後尾まで列の前後をあるきまわる。ししぶともいう。ミルクさんより前に出てはいけないらしい。

2006年

パーランク踊りであったり、ポンポン踊りであったり、その時々による。親子で参加する場合が多いよう。

2006年

バソーかかすり姿の3人、エーク(櫂)を持って踊る


2005年

ティンべー、なぎなた、鎌、なぎなた、なぎなた、なぎなた、六尺棒、なぎなた、六尺棒、ドラ、タイコ、ボラ、笛

2005年、踊り手には、波照間駐在署の警察官もいらっしゃいます

獅子舞。草木をまとい獅子の面をかぶった獅子囃子も出る

2002年(東京都在住石丸さん撮影)

西組から、仮面にツタの葉をつけた男女2人の神「フサマラー」が登場します。戦前は年3回行なわれるアミニゲーという雨乞いの行事で出て、木の枝で子供などをおっぱらったといいます。同じく西組から登場する「土神踊り」とは、雨乞いで関係があるのかもしれません。

2002年(東京都在住打矢さん撮影)
以上が原則ですが、前項で述べたように人口減や高齢化により、省略や簡素化されることも多くなっているようです。
前半は農耕に関した豊作祈願です。北部落のばあちゃんは、この演目と順列は島の歴史を物語るストーリーなのだといっていました。ミルクのお供をする女の子が持つかごには粟と稲、童が持つかごには粟とキビが入っています。今はサトウキビが種たる生産物ですが、かつては島の民謡で謡われているように島では長らく米や粟など穀物が作られていました*。
そのミルクさんからもたらされた種による豊穣をかりゆしで祝い、田畑を耕して(マミドーマ)米や粟が実り、それを稲すりで精米して餅や酒ができればれば六調で喜び、島は栄えて馬に乗った首里の役人に感謝する、というようなことを言われていました。
後半のかつお釣りと久高節は、豊漁の祈念と感謝でしょうか。

また、ミルクさんの後について太刀持ちのように少年が持つミルクナーリ(ミルクの実)は、五穀豊穣を乞い願う村びとたちの強い気持ちが肥大化したもので、他のの村落では見られぬ特異な行列(沖縄県立博物館「波照間総合調査報告書」1998)であるとか。


2001年のムシャーマは私も参加しました。西組で「波照間のみんぴぃが」。沿道で見物するおばあたちの反応がとてもよかったのが印象的でした。照島チームの演目もみました。12番や13番の写真には見覚えのある人の姿もちらほら。
土神踊りは「南洋土人踊り」ですね。唄われているのは演歌師石田一松の1930年のヒット曲「酋長の娘」の1番の歌詞「私のラバさん、酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」です。メロディもほとんど一緒。一方、土人たちの格好はフサマラーの雰囲気に近く、原型となった何かがあったようにも思えます。いつ、どのようなきっかけでこれがこのような形で演目に取り入れられたのか、以前から非常に興味があります。
終戦直後の沖縄芝居の劇団でどうもこの曲をやっていた劇団があったらしいという話をどこかで耳にしたことがあります。こういった劇団は離島も廻っていたので、もしかしたら劇団の離島興行などがあり、それをヒントにして演目に入れられたのか・・・
1960年頃の写真には彼らの姿がうつっていますので、少なくとも50年近く続いている演目であることは間違いありません。