2007年09月10日
忘勿石(わすれないし)【波照間戦争マラリア1】
昨日の沖縄タイムス朝刊で、民宿たましろの玉城功一さんが波照間の戦争マラリアについて語られています。
連載記事「教科書改ざん ただす」で、「軍命」による悲劇の実体験者として話されておられます。
沖縄タイムスのホームページにも掲載されていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu17.html
********
●西表島の忘勿石と波照間の戦争マラリア
西表・南風見の浜にある碑
風化しかかっている「忘勿石」
「忘勿石」のあるあたり
写真はいずれも2004年10月
62年前の今ごろ、本土は終戦で戦争状態から解放され、復興に進みつつあった。だが、沖縄や大陸、南洋の日本人にとっては過酷な状態が続いていた。沖縄では9月になっても残置日本兵の襲撃など戦闘状態があり、県民が入れられた収容所では過酷な状況があった。離島は飢餓と傷病でひん死にあった。とりわけ波照間島は、マラリア地獄の淵にあった。
西表島で波照間島を望む南岸、南風見海岸。大原港から徒歩30分ほどにあるこの浜の一角に、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれたレプリカと、識名信升先生の像がある(写真上)。
識名信升先生とは、戦時中の波照間国民学校の校長先生。
1945年4月、波照間島の住民は、「軍命」によりマラリア汚染されていたこの地に強制疎開させられていた。次第に罹病者が増え、死亡者が出始めていた。波照間国民学校は、識名校長が海岸にある砂岩質の岩盤の上で青空学校として教育を継続したものの、教え子からも死亡者が発生し授業を続行することは不可能になった。
「この岩場にすわって勉強をしていた生徒の中からマラリアによる死亡者が出たので、その死を悼むとともにこのような強制疎開によって多くの波照間住民が死んでいった事実を決して忘れてはいけないという思いを込めて『波照間住民よ、この石を忘れる勿れ』と刻んだ」(故識名信升先生談、沖縄国際大学南島文化研究所「波照間島調査報告書」1982)。
その石盤は、今も浜辺に残っている(写真中)。2004年に訪れた時は、枯葉と砂に埋もれていた。風と波で風化するのは時間の問題と思われる。レプリカは、この岩盤の文字を元にしたものだ。周囲にはこの地で亡くなった80人の島民をアダン葉ムシロにくるんで仮埋葬し、後に島に埋葬するため掘り起こした跡が今も残るという。身体が衰弱していたので、埋めもどす力がなかったとのこと。
なぜマラリア汚染地帯に波照間住民が強制疎開されたかは次回記すとして、「軍命」により疎開を強制したのは、暴力と威嚇により波照間島民を恐怖に陥れた陸軍工作員「山下虎雄(または寅夫。日本軍のスパイネーム)」。1945年の初めごろ、紳士的な青年学校教師に化けてやってきた山下は、島に空襲が増えた3月下旬に日本軍人の顔を出し、島民支配を始めた。疎開後も南風見に毎日のようにやってきては島民を挺身隊として酷使し、暴力で亡くなった人もいる。
7月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増。識名先生は山下に帰島を懇願したが聞きいられなかったため、7月30日夜に密かに石垣に船で向かい、石垣に駐屯する独立混成第45旅団の宮崎旅団長に食糧枯渇と死者続出を直訴、生存している島民を帰島させることに成功した。
だが、帰島したものの波照間島では軍が食糧を根こそぎ持ち去っていたため、さらに凄惨な状況に。結果的に1590人の人口のうち1587人、実に99.81%の人がマラリアに感染し、477人が亡くなった(1947八重山民政府調べ※)。8月807人、9月489人、10月384人とマラリア犠牲者は続き、島民全滅の恐れもあった。波照間国民学校では学童323人のうち少なくとも66人がマラリアの犠牲になった。
※八重山全域では、1945年の「戦争マラリア」で人口31681人のうち16882人が罹患し(罹患率53.29%)、3647人が亡くなっている。
********
日本の降伏後、沖縄県では大部分が9月になっても戦闘状態であり、アメリカ統治下ながら日本軍(残置兵など)も存続していました。波照間島でも悲惨な状況が続いていました。その事実を知りたく、また平和を考える礎にと思い、当時のことを島の方に何度か聞こうと思ったのですが、辛く苦しい思いを蘇らせてしまうと考えるとお聞きできないのが現状です。
せめて、これまでの多くの証言や研究で明らかになっていることが死蔵されずに少しでも波照間に関心をお持ちの方で共有できればと思い、また今は平和な波照間を訪れる度に、戦争マラリアのことは旅人として記憶を新たにせねばならないと考え、取り上げる次第です。
(つづく)
連載記事「教科書改ざん ただす」で、「軍命」による悲劇の実体験者として話されておられます。
沖縄タイムスのホームページにも掲載されていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu17.html
********
●西表島の忘勿石と波照間の戦争マラリア
西表・南風見の浜にある碑
風化しかかっている「忘勿石」
「忘勿石」のあるあたり
写真はいずれも2004年10月
62年前の今ごろ、本土は終戦で戦争状態から解放され、復興に進みつつあった。だが、沖縄や大陸、南洋の日本人にとっては過酷な状態が続いていた。沖縄では9月になっても残置日本兵の襲撃など戦闘状態があり、県民が入れられた収容所では過酷な状況があった。離島は飢餓と傷病でひん死にあった。とりわけ波照間島は、マラリア地獄の淵にあった。
西表島で波照間島を望む南岸、南風見海岸。大原港から徒歩30分ほどにあるこの浜の一角に、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれたレプリカと、識名信升先生の像がある(写真上)。
識名信升先生とは、戦時中の波照間国民学校の校長先生。
1945年4月、波照間島の住民は、「軍命」によりマラリア汚染されていたこの地に強制疎開させられていた。次第に罹病者が増え、死亡者が出始めていた。波照間国民学校は、識名校長が海岸にある砂岩質の岩盤の上で青空学校として教育を継続したものの、教え子からも死亡者が発生し授業を続行することは不可能になった。
「この岩場にすわって勉強をしていた生徒の中からマラリアによる死亡者が出たので、その死を悼むとともにこのような強制疎開によって多くの波照間住民が死んでいった事実を決して忘れてはいけないという思いを込めて『波照間住民よ、この石を忘れる勿れ』と刻んだ」(故識名信升先生談、沖縄国際大学南島文化研究所「波照間島調査報告書」1982)。
その石盤は、今も浜辺に残っている(写真中)。2004年に訪れた時は、枯葉と砂に埋もれていた。風と波で風化するのは時間の問題と思われる。レプリカは、この岩盤の文字を元にしたものだ。周囲にはこの地で亡くなった80人の島民をアダン葉ムシロにくるんで仮埋葬し、後に島に埋葬するため掘り起こした跡が今も残るという。身体が衰弱していたので、埋めもどす力がなかったとのこと。
なぜマラリア汚染地帯に波照間住民が強制疎開されたかは次回記すとして、「軍命」により疎開を強制したのは、暴力と威嚇により波照間島民を恐怖に陥れた陸軍工作員「山下虎雄(または寅夫。日本軍のスパイネーム)」。1945年の初めごろ、紳士的な青年学校教師に化けてやってきた山下は、島に空襲が増えた3月下旬に日本軍人の顔を出し、島民支配を始めた。疎開後も南風見に毎日のようにやってきては島民を挺身隊として酷使し、暴力で亡くなった人もいる。
7月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増。識名先生は山下に帰島を懇願したが聞きいられなかったため、7月30日夜に密かに石垣に船で向かい、石垣に駐屯する独立混成第45旅団の宮崎旅団長に食糧枯渇と死者続出を直訴、生存している島民を帰島させることに成功した。
だが、帰島したものの波照間島では軍が食糧を根こそぎ持ち去っていたため、さらに凄惨な状況に。結果的に1590人の人口のうち1587人、実に99.81%の人がマラリアに感染し、477人が亡くなった(1947八重山民政府調べ※)。8月807人、9月489人、10月384人とマラリア犠牲者は続き、島民全滅の恐れもあった。波照間国民学校では学童323人のうち少なくとも66人がマラリアの犠牲になった。
※八重山全域では、1945年の「戦争マラリア」で人口31681人のうち16882人が罹患し(罹患率53.29%)、3647人が亡くなっている。
********
日本の降伏後、沖縄県では大部分が9月になっても戦闘状態であり、アメリカ統治下ながら日本軍(残置兵など)も存続していました。波照間島でも悲惨な状況が続いていました。その事実を知りたく、また平和を考える礎にと思い、当時のことを島の方に何度か聞こうと思ったのですが、辛く苦しい思いを蘇らせてしまうと考えるとお聞きできないのが現状です。
せめて、これまでの多くの証言や研究で明らかになっていることが死蔵されずに少しでも波照間に関心をお持ちの方で共有できればと思い、また今は平和な波照間を訪れる度に、戦争マラリアのことは旅人として記憶を新たにせねばならないと考え、取り上げる次第です。
(つづく)
Posted by We are OKINAWAN-KOBE at 19:35│Comments(3)
│戦争マラリア
この記事へのコメント
「忘勿石」のことをはじめて知りました。
今朝のNHKテレビで放送していましたね。
わたしは昭和19年に東京に生まれ、生後数ヶ月で山形の田舎に疎開しました。
中国残留孤児の親・親族探しのことがはじめて報道されたときも大変なショックを受けました。それは、言葉は適切でありませんが、一歩まちがえていたら自分も同じ運命であった可能性が高かったということです。
今朝のNHKテレビにも釘付け状態で見入っていました。
日本中の人々の多くがことの大小・多少の差はあれ、苦しいときを耐えてきたことは事実ですが、このような悲劇を決して繰り返してはならないと思いました。
素晴らしい星空が見れると聞いていた波照間島にこのような悲しい出来事があったとは知りませんでした。きれいな星々のひとつひとつの輝きは島に帰りたいという亡くなられた方々の思いの涙かもしれませんね。
合掌
今朝のNHKテレビで放送していましたね。
わたしは昭和19年に東京に生まれ、生後数ヶ月で山形の田舎に疎開しました。
中国残留孤児の親・親族探しのことがはじめて報道されたときも大変なショックを受けました。それは、言葉は適切でありませんが、一歩まちがえていたら自分も同じ運命であった可能性が高かったということです。
今朝のNHKテレビにも釘付け状態で見入っていました。
日本中の人々の多くがことの大小・多少の差はあれ、苦しいときを耐えてきたことは事実ですが、このような悲劇を決して繰り返してはならないと思いました。
素晴らしい星空が見れると聞いていた波照間島にこのような悲しい出来事があったとは知りませんでした。きれいな星々のひとつひとつの輝きは島に帰りたいという亡くなられた方々の思いの涙かもしれませんね。
合掌
Posted by 須田 裕 at 2009年04月22日 09:45
素敵なブログ...これは...本当に水痘は、空気を介して送信される上に多くの情報があります。ときに水痘咳やくしゃみをした患者は、彼らは鶏痘ウイルス(水痘帯状疱疹ウイルス、VZV)を運ぶ小さな液滴を排出する。鶏痘を持っていたことがない人は、これらの粒子を吸う場合は、ウイルスが肺に入るには水疱瘡の典型的な発疹を引き起こす皮膚への血液を介して行われる。感染した液滴が気道上皮の最初の感染症を引き起こす。
典型的な発疹が現れる前に、患者はしばしば発熱、頭痛、腫れ腺や症状のような他のインフルエンザを開発しています。
水痘を防止することはできますか?
水痘を防ぐことができる。キャッチ水痘を防ぐために、最も簡単な方法は、予防接種を受けることです。しかし、予防接種は、すべての予防接種の70%から90%に成功しています。しかし、ワクチンを接種されている、まだ水痘を取得し、個人は、通常より迅速に、非接種者よりも癒してくれる穏やかな病気を持っています。
典型的な発疹が現れる前に、患者はしばしば発熱、頭痛、腫れ腺や症状のような他のインフルエンザを開発しています。
水痘を防止することはできますか?
水痘を防ぐことができる。キャッチ水痘を防ぐために、最も簡単な方法は、予防接種を受けることです。しかし、予防接種は、すべての予防接種の70%から90%に成功しています。しかし、ワクチンを接種されている、まだ水痘を取得し、個人は、通常より迅速に、非接種者よりも癒してくれる穏やかな病気を持っています。
Posted by ダノクリン at 2011年03月08日 19:01
しね
Posted by んkj at 2020年06月22日 08:51